
絵本「ぼくのかぞくを しょうかいするね」が素晴らしい。まず何よりタイトルがいい。子どもが友だちやクラスメイトに家族を紹介している画が浮かぶ。それも出てくるのは多様な家族のかたちだ。『多様性』という言葉をよく目にする時代にあって、まさにその最初の入口としてこれほど最適なものはないかもしれない。今回はそんな絵本の文を担当したよこおさんから、まずはそのタイトルに込めた想いを聞きました。
きっかけは、知人からのある言葉。
よこお 最初は「かぞくのかたち」ってタイトルだったんですよ。でも別の本で似たようなのがあるって言われて、それで本文で「ぼくのかぞくを しょうかいするね」っていう一言から始めてるし、その繰り返しなので、これがわかりやすいんじゃないかと思って。「かぞくのかたち」も意味はわかるけど、変に抽象的になっても、ピンとこないと意味ないじゃないですか。子どもにわかりやすいのがいいよなっていうのもあって、「ぼくのかぞくをしょうかいするね」にしました。実際に絵本を読んでくれた友だちの娘ちゃんが「◯◯ちゃんのかぞくをしょうかいするね」って家で話してるって聞いて、これにしてよかったなと思いました。
たしかに「かぞくのかたち」だと意味に広がりが出てしまって、伝えたいことが伝わらない可能性もある。そういう意味ではこれ以上にないタイトルと言えるかもしれない。でもなぜ絵本にしようと思ったのだろうか。
よこお 絵本を作るきっかけは、わたしは普通に結婚して出産して、離婚してるんですけど。新しいパートナーができたタイミングで、知人から「新しいパートナーとのあいだに新しい妹か弟ができたら、今の子がひとりぼっちになっちゃうね」って言われて、最初は何を言われてるか分からなかったんですけど、よくよく考えたら血のつながりが、わたしとしかないからって意味だと思って。今の時代に『血のつながりこそ家族だ』って思う人がいるんだと思うとけっこう衝撃的でした。しかも同世代で。ちいさい頃は特に親の考えに影響されることが多いと思うので、いつか息子も「なんで父親が2人いるの?」って言われるかもしれないって思って。そのときに自分の家族って普通じゃないのかなって息子には思ってほしくないって、ずっと思ってたんですけど、でも言葉で伝えても忘れちゃうし、だからなんかいい方法ないかなって思ってたときに、絵本のコンテストの広告が出てきて、これは絵本だ!絵本がいい!って思って応募しました。
絵本コンテストの広告が出てきたからと言って、すぐに応募するまでに至ったのは、絵本制作の経験があったからなのだろうか。

よこお ぜんっぜんないです。むかし塾で働いていたときは、保護者向けにコラムみたいなのを書いてたんですけど。絵本のような短い文章っていうのはぜんっぜんやったことなくって。だから最初に応募した文章とはガラッと変わってます。最初は家族のかたちの羅列、お母さんとぼくとか、ふたりのお母さんとわたしとか、おばあちゃんとおじいちゃんとぼくとか、施設に入ってる子もいると思ったので、先生とたくさんの兄弟とか、ほんとうにかたちの羅列だけだったんですよ。応募したときに賞は獲れなかったんですけど、3ヶ月後くらいに封筒がきて、2300作品の応募の中から、30作品に選ばれてたんです。それで書評もいただいて、その中でかたちの羅列だけだと子どもが読んだときにイメージするのが難しいから、もうちょっと数を絞った方がいいかもしれないですって書いてて、なるほどと思ったので、家族のかたちの紹介プラス、その家族の具体的なエピソードを考えて今の形になったって感じですね。 そして30作品に選ばれたことで、自費出版という形ではあるけれど、こうして世に出ることになったのだとか。さて、ここまでは文を担当したよこおさんの話を聞いてきたけれど、絵本はやはり絵があってこそ。切り絵を担当したやすのさとみさんにも一緒に話を聞きました。
ふたりの出会いは埼玉県北本市にあるレンタルシェアスペース<ケルン>。同じ日に1Fと2Fで使用することが多く、自然と話すようになり、この絵本の話もそんな流れから生まれました。ちなみに文を担当したよこおさんは、catnapという屋号でケルンの2Fでハンドマッサージを、やすのさんは喫茶ケルンという屋号でおはぎやスコーン、かき氷などを提供しています。
固定概念からあふれたものも受け入れるのが大事

ーーこれまでも浦和PARCOでのイベント「今日からの暮らし」のフライヤーのデザインなどでいろいろな素材を使っていたと思いますが、今回は割と絞った感じですか。
やすの 今回は制作費のこともあるので、ほとんどの素材をみーちゃん(よこおさん)のお姉さんが持っていた色画用紙を使わせていただきました。
よこお わたしの姉がデザイナーさんが使うような、ちょっと特殊な画用紙(質感がカタカタしてたり、網目になってたり、同じ色でも微妙に違うトーンになってたり)をたくさん集めていたんですけど、その断捨離をするのをきっかけに、うちにごっそり送って来たんですよ。息子にあげてみたいな感じで。すごい量があったので、使いきれないと思って、さとちゃん(やすのさん)が紙の素材でやってるの知ってたので、使いませんかってね。
やすの そうです!だから全体の8割くらいを頂いた素材で作りました。基本的にあるもので作るっていうスタイルで制作することが多いので、素材をもらえてラッキーと思いました!
よこお キャンプしてる家族のサンダルの細かさとか見て欲しいです。
やすの カッターで切って作りました。
よこお ほんと、すごいんですよ。だから絵・やすのさとみじゃなくて、切り絵・やすのさとみにすればよかった。そこが失敗したって思ってて。だってすごくないですか。この絵の繊細さを知って欲しい。だから原画を見て欲しい(ケルンで一度開催)
ーーそんな切り絵を担当するにあたって気をつけたことはありますか。
やすの この絵本を様々な年代の方に読んでいただけるといいなと思ってるんですけど、なかでも固定概念がつく前のお子さんが、自分とは違う家族のかたちを知ったり、触れたりするきっかけになるといいなと思いました。だから、文字だけよりも絵があることでより入っていきやすいように作りました。それが絵の役割かなと思って。もともとどんな家族が登場するのかっていう人物像をみーちゃんが作ってくれていたんです。たとえば最初の家族は、何人家族でっていうのが文章としてあるんですけど、そのより詳しい人物像として、お父さんが何歳くらいで、身長は何センチくらいで、体格はどのくらいでとか、どういう服を着ていてとか、職業は何で、趣味は何でっていうことを全部の登場人物、1人ずつのプロフィールができていました。
よこお それをしないまま丸投げしてたら絶対大変だよなと思って。エクセルでバーって作って。でも本当その通りに作ってくれたよね。
やすの 作りやすい状態で渡してくださったので、それをもとに下絵を書いて。みーちゃんからもらったプロフィールができるだけ絵に乗るようにしました。たとえば、最初のキャンプの家族は、野球が好きな男の子と妹の女の子は、赤の靴をこれがいいって言って選んでそうだなとか、写真に写るときのポーズは、こうやって写ってそうだなとか。二番目に登場する「お父さんとわたし」の女の子のプロフィールには絵が好きって書いてあったから、絵の具と筆を持ってたりとか。そういうことを意識して作りました。
ーーただ読むだけじゃなくって、切り絵だけを見ても面白そうですね。
やすの そうですね、もともと女性とされる性をもって生まれてきたお父さんの話は、言葉だけだと難しいから、ここは本当に絵が大事だなって思ったんだけど、でもそれをどう表現すると伝わりやすくなるだろうかと悩みました。固定的な色とか、男女の決めつけにならないように表現したいけど、絵の役割である分かりやすさを大切にしたいと思って、めちゃくちゃ話したよね。

よこお ほんと、どうしようって言ってね。
やすの 最初は赤青じゃなくて、黄色と緑とかにしたかったんですよ。そうすると逆に伝わりづらいよねってなって。結局シルエットは一緒で、どっちが女の子でどっちが男の子とは言わないようにしました。
よこお 赤が女の子で、青が男の子って思ったら、その人の固定概念(笑)
ーー 試されてる。
やすの 自分を疑えっていう(笑)
ーー 青が男の子で、赤が女の子って思ったら負けってことですね。
よこお 負けじゃないですけどね、それはそれでいいんですよ。
やすの 捉え方はそれぞれの自由なんだけど、その2つの性別、男の子の気持ち、女の子の気持ち、どっちもわかるお父さんっていうのをわかりやすく絵に表せてるといいなと思います。
よこお だから固定概念があってもいいけど、そうじゃない人がいてもぜんぜん問題ないっていうのがいいのかなって。男の子が青で女の子が赤って思う固定概念があってもいいけど、女の子が青で、男の子が赤って思う子がいてもいいっていう。
ーー たしかに固定概念を否定しなきゃいけないわけではない。
よこお そうそう、固定概念からあふれたものも受け入れるのが大事なのかもしれない。
やすの 特に最後のページは、受けとる側に委ねてる部分が大きくて、シルエットだからどう見えてもおかしくないっていうか。絵を見て想像してみてほしい。だからまずお話を中心に読むターンがあって、何回か読んだら、絵に注目してみて欲しいかな。そこから想像できることがたくさんあると思うから、もっと楽しいし、もっと広がるかなって。受け取りかたも、その人それぞれの中にあるものだから。ひとりでじっくり読むのもいいし、誰かと一緒に見て、自分にはどう見えるっていうのを共有するのもまた広がるかなと思います。

家族は多くの人にとって最初に出会う一番ちいさな社会だ。その社会から一歩外に踏み出すと、我が家の当たり前は当たり前じゃないと気づかされる。こういうことは、おそらく誰しもが一度は経験したことがあるだろう。そこにはいろんな普通がある。裏を返せば、どんな家族も普通じゃないとも言えるかもしれない。つまり普通なんてないと。多様性というのはそういうことなのかもしれない。誰かが普通で誰かが普通じゃないのではなく、誰も普通じゃない。だからこそ、それを普通に受け入れたり、当たり前に受け入れればいいのだと思う(えさき)
Instagram:@boku_no_kazoku
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